恐怖の存在の著者マイケル・クライトン氏、死去
2008年11月6日(木)
二酸化炭素が原因による地球温暖化に疑問を持つきっかけとなった恐怖の存在の著者、マイケル・クライトン氏が11月4日に亡くなった。66歳である、若すぎる。
彼は以前NHKのインタビュー番組で、地球温暖化の原因を二酸化炭素に求める事に対して疑問を持ち、自身でいろいろと取材した結果そうではないと言う結論に達し、『恐怖の存在』としてまとめて発表したと語っていた。
物事に疑問を持った場合に自身でデータを集め、解釈し、その結果を自分自身の言葉でまとめるという至極真っ当な方法で地球温暖化の原因が二酸化炭素ではない(だけではない)と結論づけた姿勢が非常に説得力を持っていた。(録画ビデオを無くしたので正確ではない)
この結論はアル・ゴア氏の不都合な真実に真っ向から挑戦するもので、現在多くの支持を得ているに酸化炭素犯人説とは異なるものだ。
恐怖の存在は地球温暖化による海面上昇で海に沈んでしまう国家バヌアツが、二酸化炭素の最大の排出国であるアメリカを相手に訴訟を起こすが、実はこの訴訟を支援する環境団体が環境テロリストと結託していたという設定のサスペンスだ。
非常に読み応えのある小説であるが、中で紹介されている様々なデータを通じて真の科学的なものの見方とは何かと言う事を読者に訴えているように感じた。
人はどうしても自分自身が納得したい方向に思考しがちだ。たしかに人間活動の活発化により100年前より大気中の二酸化炭素濃度は上昇している。最近は夏になる度に暑さが増しているように感ずるし、特に都会では確実に気温は上昇している。
だがこの二つを結びつけて考えるところからすでに冷静な議論は出来なくなってしまう。
以下は気象庁が発表した年間の平均気温のデータをグラフにしたものだ。
最初は東京だ。(グラフをクリックすると拡大表示される)

確かに上昇している。では北海道の寿都町はどうかというと

こうなる。
この二つのグラフを見るだけでも地球温暖化が単純な問題ではない事が判る。このデータからは寿都町の人は温暖化など感じていないだろう。
こんなグラフを私が作るきっかけを与えてくれたマイケル・クライトン氏が亡くなったのは本当に残念だ。出来れば不都合な真実に対抗する映画を作ってもらいたかった。
ご冥福をお祈りします。
マイケル・クライトン氏のメッセージ
恐怖の存在の終わりには環境問題に関するマイケル・クライトン氏のメッセージが載せられている。全てを紹介する事は出来ないが一部を引用したい。
- 大気中の二酸化炭素は増加しており、人間の活動がその原因を作っている可能性がある。
- 1850年ごろ、”小氷期”として知られる、400年にわたってつづいた寒冷な時期が終わり、以後は地球全体で自然の温暖化が進んでいて、現在もその過程にある。
- 来世紀において、温暖化がどの程度進むかはだれにもわからない。コンピューターモデルによる予測には、400%ものばらつきがある。これはだれにも実態がつかめないことの、事実上の証拠といっていい。しかし、あえて推測するならば・・・じっさい、結局のところ、だれもがやっていることは、この”推測”でしかないのだが・・・気温の上昇は0.812346度Cだと思う。いまから100年後の地球の温度に関するわたしの推測が、ほかの推測より正確であるという証拠も劣っているとする証拠も、まったくない。
- 気象モデルに基づいて莫大な費用をともなう政策を決定する前に、それらのモデルが今後の気象の変化を正確に予測出来るのかどうか、ようすを見るほうが無難だろう。ようす見の期間は10年間。20年間ならなおよい。
- 安全に対する現在のヒステリーに近いこだわりは、どんなに好意的に評価しても資源の消費であり、人間の精神を萎縮させるものであって、最悪の場合、全体主義にも通じかねない。その点を啓蒙することは絶対に必要だ。
- いわゆる”自然”をどうすれば保護できるのかがまったくわかっていない以上、まずはフィールドで調査を行い、その方法を探るべきだろう。それなのに、そのような研究が・・・虚心坦懐にも、合理的にも、体系的にも・・・行われている形跡は見当たらない。こんな状況では21世紀中に自然環境の有効な保護管理が行われる見こみなどないと思う。足を引っぱっているのは環境保護団体だ。その阻害ぶりはデベロッパーや露天堀り事業者といい勝負だろう。違いは強欲か無知かという点だけで、両者がもたらす結果はなんら変わるところがない。
- われわれが共有する自然環境ほど本質的に政治的なものはなく、単独政党への忠誠ほど有害なものはない。環境は共有されるものであるがゆえに、経済的事情、または審美的な好みによって、ひとつの党派に管理しきれるものではない。早晩、対立政党が権力を持ち、政策をひっくりかえされるときがくる。環境を安定して管理するためには、どのような趣味嗜好の持ち主にもその居場所を認めてやることが必要だろう。たとえば、スノーモービル、フライフィッシング、ダートバイク、ハイキング、土地開発、環境保護運動・・・こういった趣味、事業、運動は、なにかと不和の元であり、まわりと衝突を起こすことが避けられない。しかし、相互に相いれない悶着を解決することこそは、政治の真の役割ではないのか。
- 適切な政策を決定するための研究を行うには、研究者が公平中立を維持し、ひもつきでない資金を使える仕組みが必要だ。現実には科学者は自分たちがだれの意を受けて研究しているかを気にせずにはいられない。研究に出資する側は・・・それが製薬会社であれ、政府機関であれ、環境保護団体であれ・・・これこれの結論を出してほしいという思惑を持つ。何の縛りもなく、自由に結論を出していいとする出資者はまずいない。科学者の側は、今後も継続して資金をだしてもらうためには、出資者が望む結果を出さなくてはならないことを知っている。そのため、環境保護団体の発表する”研究結果”は、企業サイドの発表する”研究結果”に負けず劣らずバイアスがかかってしまう。政府発表の”研究結果”もまた、同じように偏向している。どちらに偏向するかは、依頼主の省庁やそのときどきの為政者によって変わるが、偏向していることには変わりない。公正で偏りのない結果を許容する出資者など、この世には存在しないのである。
- 世界には絶対確実を標榜するものが多すぎる。
以上、2005年に出版された『恐怖の存在』より引用。いろいろと考えさせられるメッセージだ。







コメント(2)
サイト: http://greece.pskd.net/
ちょくちょく遊びに来ます。いつも日記凄いですね。私も頑張ります。もう寒くなってきたので体に気をつけて下さい。また遊びに来ます。
サイト: http://www.my-sapporo.com/
akiさま、コメントありがとうございます。
ネットの弊害でしょうか、いろいろな問題が話題になり個人レベルで情報発信したり、意見を述べたり出来る事はすばらしいのですが、みな極論に走りがちなような気がします。
本当の意味で『ネットワーク』が構築され、万人に開かれた意見交換の場となればすばらしいと思います。
南アフリカのワールドカップ、成功する事を願っています。